木曽の自然と時間が育む 天然醸造 こうじ味噌

お味噌の歴史

 

 

◆ 米があれば、お味噌も醤油もお酒もできた-弥生時代後期-◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

お味噌の原形ができたのは、弥生時代の後期と言われています。米を栽培するようになり、米を食べるようになると、食べ残しも出てきます。

それで、食べ残したご飯をほったらかしておくと、いろんなカビがはえてきます。そのカビの一つが糀菌です。 いろいろな偶然や実験(も、したんでしょうね)が重なって、糀菌だけをとりだし、糀菌とお米でいろんな料理ができることが分かってきました。

お酒、味噌、醤油です。

もちろん、現在の形からは程遠く、料理と漬物と、調味料をごちゃごちゃにしたようなものです。 (この辺の事情は、糀研究室でもう少し詳しくお話していますので、よかったらどうぞ)

◆ 大陸から教わった糀発酵の技-古墳時代から飛鳥時代-◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

卑弥呼の時代を過ぎ、大和朝廷が勢いを増して、国内の統一を進めていった古墳時代に入ると、発酵の技術もだいぶ上手になってきました。

一方、中国大陸との交流から糀発酵の技も伝わってきました。 朝鮮半島の百済人などが渡来し、ある者は帰化して、農業や、機織り、木工などの様々な専門技術、知識を広めたんですね。

その頃、朝鮮半島にあった高句麗は、特に糀の技に長けていたそうです。
酒、醤油の造り方も、高句麗 から、高句麗を通じて中国から、また、朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちによってなど、いろいろなルートから入ってきたのではないでしょうか。

飛鳥時代の末期、668年に高句麗が新羅に滅ばされると、大勢の高句麗人が難を逃れて日本にやってきました。聖徳太子も亡くなり、大化の改新も過ぎ去った頃です。

高句麗人は、大豆を発酵させて味噌にする、つまり、米や麦を使わない「豆味噌」の造り方を伝えました。 豆味噌は、粒が大きく、ペースト状ではなかったのですが、この匠の技によって、味噌造りは大きく進歩することになります。 豆味噌は、寒くないと発酵管理が難しい米糀に比べて、暖かくても造りやすかったのです。

味噌は「未醤」と呼ばれ、各地で造られるようになりました。 日本初の国家基本法である701年の「大宝律令」では、租税の一つに「末醤」が挙がっています。

もっとも、まだまだ上流階級だけの楽しみでした。味噌は高級食材だったのです。貴族、武士、僧侶、お金持ち以外には、特別な存在だったようです。

例えば、奈良の大仏を建立した時には、労働者たちに味噌が与えられていました。過酷な労働でも頑張れるように、なんでしょうね。

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◆「未醤」から日本の「味噌」へ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

味噌、醤油のたぐいは、中国の文字から「醤」(ひしお・じゃん)と呼ばれていました。 高句麗人の豆味噌は、「未醤」、「密祖」、「美蘇」(みそ・高句麗の発音ではメズ)などと書かれています。
「未醤」は、「未醤」、 「味醤」と変化し、平安時代から室町時代には、はっきり「味噌」で定着しました。

現在の日本オリジナル「味噌」が完成したのです。

「味噌」と漢字にすると、日本人の味噌への思いが見えてきます。
まず「味」。
「醤」から「味」に昇格して、味覚そのものになったといえるでしょう。
そして、「噌」は、味噌のためだけに造られた漢字です。「かまびすしい」とか「にぎやか」という意味です。
「複雑に絡み合った味」「全ての頂点に立つ味」味噌にはそんな素晴らしい意味があるのです。

◆ 味噌汁の登場-鎌倉時代-◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

味噌が現在の形になるまでは、舐めたり、野菜や魚に塗って食べるものでした。
平安時代に入り、米作が安定していくに従って、生産量も増えました。
米味噌、麦味噌、豆味噌と、地方の気候や作物を生かした特徴も出てきました。

味噌が体によいことも広まっていました。
消化吸収が良い高タンパク源で、ビタミンB群、ビタミンE、アミノ酸、乳酸菌が生きてる! な~んて知らなくても、体が元気になるのは分かりますよね。

味噌が上流階級から庶民に広まっていったのは、平安時代から鎌倉時代と考えらています。
平安京では、味噌や醤を売る店があったようです。
味噌は日本人の食卓に欠かせない大切な調味料になってきます。

こうした中で、鎌倉時代に画期的な味噌の使い方が発明されました。 それは、味噌の粒々をすって、ペースト状にしてしまうのです。
ペースト状の味噌を水で溶かすと、味噌汁になりました。味噌味のスープはあったようですが、れっきとした味噌汁は初めてです。


味噌汁は禅僧が考え出したと言われています。
禅寺では、同じ鎌倉時代に中国に留学した僧侶の覚心が「径山寺(きんざんじ)味噌」の造り方を持ち帰ったりしています。精進料理の技に中国の知恵が合わさって、味噌料理が発達したんですね。

とにかく味噌汁の登場は食習慣を一変させたくらい、素晴らしいものでした。
鎌倉時代は、質素な生活をモットーとしていた武家社会です。 一汁一菜の食習慣は、味噌汁によって確立されました。粗食にみえても、栄養バランスの優れた味噌のおかげで、むしろ健康的になるのです。

味噌汁は食生活の基本になり、庶民にも少しづつ浸透していきました。

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◆ 手前味噌全盛-室町時代-◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

鎌倉幕府がつぶれて、戦乱の世になると、味噌はますます貴重に、基本の食材になってきました。 味噌はいつ戦いに行くかもしれない武士にとっては、携帯に便利な栄養食でした。

この頃、朝鮮半島の高麗から、大豆を丸めて糀発酵させる味噌玉が伝わりました。 味噌はさらに美味しくなり、どこの家でも味噌を造るようになりました。

手前味噌の時代です。

造る人や、その家に住む自然の菌、気候によって味が変わるから、全国各地で、地方、村で、家庭で、それぞれの味噌が造られていきます。
味噌はそこでしか味わえない、家庭の、ふる里の味になっていきます。

一方、豆腐や納豆など、味噌に合う、豆料理も普及して、味噌料理はさらにバリエーションが増えていきます。

◆ 木曽谷の味噌◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

我が木曽谷でも、もちろん味噌は作られていました。 平安時代後期の英雄、木曾義仲は、戦の携帯食として味噌や米を朴の葉に包んでいたそうです。

ところが木曾谷は、米の生産量も少なく、塩もありません。 幸い、お隣の伊奈谷は米の名産地だったので、伊那谷から木曾谷へ米を運んでいました。

伊那節の一節には、
「木曽へ木曽へと つけ出す米は 伊那や高遠の 伊那や高遠の なみだ米 ア ソリャコイ アバヨ
なみだ米とは そりゃ情けない 伊那や高遠の 伊那や高遠の あまり米 ア ソリャコイ アバヨ」
と歌われています。
江戸時代(1696)には、伊那谷と木曾谷を結ぶ峠道も開かれて、流通が便利になりました。

味噌造りには、塩不足を補う目的もあったようです。
例えばご飯に塩か味噌をかけて食べるとしましょう。舌が満足するためには、塩よりも味噌の方が少なくてすみます。貴重な塩をそのまま使うより、味噌にした方が、多く使えるんですね。
そうそう、味噌を寝かせている過程で、液体が出てきます。溜まり醤油と呼び、貴重な液体調味料でした。

材料集めには苦労しても、水と空気が清らかで、昼と夜の温暖さが大きく、冷涼な木曽谷は、味噌造りにぴったりの条件が揃っています。
美味しくて、栄養のバランスが良く、保存食である味噌は、木曽の人たちにとって、貴重な食材として造り継がれていきます。

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◆ 味噌屋の登場-江戸時代-◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

徳川家康が天下統一を果たした江戸時代には、庶民の暮らしも落ち着き、さまざまな文化が華やかに開きます。

食文化もその一つで、「本朝食鑑」(1695年・元禄)、「料理塩梅集」(1668年・寛文)などの料理の本も発刊され、また流通経路も良くなったので、諸国の食べ物が広まりました。

味噌も家庭での手造りだけでなく、お店で買うことも多くなってきました。
1645年には、伊達藩が「御塩噌蔵」を設け、仙台味噌を大量に売り出します。味噌の工業化の始まりです。

そもそも江戸にいる伊達藩の藩士たちが、仙台味噌を食べれずに欲求不満になってしまったのが、「御塩噌蔵」を設けるきっかけだったそうです。
味噌汁の味が体に染み込んで、食べ慣れた味じゃないと落ち着かない、手前味噌が定着したってわけです。

こうした味噌蔵の数はさらに増え、江戸時代の末期には、およそ6000にもなりました。

◆ 異国の味にも似合う味噌-明治・大正時代-◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

1867年、大政奉還、王政復古の大号令、徳川幕府の終焉、文明開化…日本に異国の風が吹き込んできました。

異国の味は珍しいものばかりでしたが、なにより肉食の習慣はインパクトがありました。 それまでの日本人は、肉はたまに鶏肉がせいぜいで、あとは、ウサギ、イノシシ、鹿などのゲームミートを食べるくらいだったのです。

文明開化の象徴として、東京で流行したのが牛鍋でした。
ちょんまげを落としたざんぎり頭で、牛鍋をつつのくのが、最先端のお洒落だったんですね。 西洋文化といえど、この牛鍋、ちゃっかり味噌仕立てでした。

それまでおなじみの、牡丹(イノシシ)鍋、紅葉(鹿)鍋、桜(午)鍋は、どれも味噌仕立てでした。味噌は、獣肉の臭みをとり、柔らかくするのです。

それで、牛肉も味噌で臭みを消せば、日本人の口に合うだろうと、味噌仕立てになったようです。

この後もトンカツやオムライス、ラーメンと、西洋料理をカスタマイズした洋食が出てきますね。

米の飯に合う味噌ですが、実は牛乳やクリーム系との相性もなかなかのものです。 味噌味の鍋に牛乳を入れたり、ホワイトクリームやマヨネーズと合わせてグラタンやドリアに、チーズと焼いてもよいですね。北海道の味噌バターラーメンなんて、和洋食の例ですね。 味噌って、隠し味にも、主役にもなれるんです。

味噌汁として家庭の味となり、異国の味にも合う食材として、味噌は、さらに広まっていきます。

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◆ 信州味噌は東京へ行く-昭和から平成へ-◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

手前味噌を作る家庭も少なくなり、糀屋はほとんど味噌蔵と同じ意味になっていきます。

第二次世界大戦後、東京では味噌蔵が戦火で少なくなり、味噌が不足していました。そこで、信州から味噌が大量に出荷されました。 米糀がたっぷり入った薄い、山吹色の信州味噌は、東京でお馴染みになります。

昭和40年代に入ると、パン食が広まって、味噌汁の出番も少なくなってきたようですが、トーストと味噌汁ってのも悪くないものです。
パン食だけど、味噌汁って家庭も多いのではないでしょうか。
カップの味噌汁やインスタント味噌汁がよく売れているように、味噌汁は、まだまだ日本人に欠かせないものなのです。

一方、食品化学の発達で、味噌も工場で素早く作れるようになってきました。安く早く作れるようになり、昔の味は薄れていきます。
時代の流れが早くなり、経済発展の陰で、日本の食卓もインスタントになっていきました。

自然食品や無添加が見直されるようになってきたのは、昭和の終わり頃でしょうか?
食べる物の安全も考えられるようになり、現在では、“安全で美味しい”ことが求められています。

味噌の歴史をざっと見てきました。

味噌は、糀の発見から、貴族の楽しみ、戦の携帯食、一汁一菜の要として、役割を変えながら、日本人の味になっていったんですね。

小池の糀味噌は、木曽の伝統を守り、昔から安全で美味しいし、これからももっと安全で美味しくなっていきます。
味噌汁や味噌料理にたくさん使って、お楽しみ下さい。

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